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​ラピスラズリの残像01

   煙に犯された肺と、紫煙の向こうに見えるいたずらに細められた瞳を嫌でも覚えている。






   …………………だっっっっる。紙の束を机に叩きつけて伏せる。仕事の感想だ。だるい。
  夢を諦めて保険(辛くて何度も止めようと思った)で取った教職が奇跡みたいに通って就いた教職の座。スーツ着なくて良いし、公務員だから給料は安定してるしで御の字だと思ったらそうでもない。中途半端に自我が育った子供たちは自分を大人と思って行動してくるし、これは教育実習でわかっていたことだが、初年度は授業計画が大変だ。毎日毎日指導要項と睨みあって授業用ノートを作る。おまけに就業時間外の部活。料理なんて得意じゃないのに。なんで調理部になっちゃったんだろう。主任の圧に負けなければ良かった。


   ふう、と長めのため息を書類に吹き掛ける。なんで兵庫なんかに来ちゃったんだろ。親戚もいなければ特別な思い入れもないのに。


   ――果歩子はなにも悪くない。どうか彼女のことは責めないであげてください。
   テノールの落ち着いた声が頭を過る。兵助。私たちはこの関係に名前はつけなかったけど、病めるときも健やかなるときも、常に寄り添ってきた唯一の人。好きなんて一言も言ったことなかったけど、大好きで、大切な人。もう遠くへいってしまった人。訛りなんてひとつもなかったけど、自死した彼が兵庫出身だった。そんな自死した彼の面影を求めて、私は兵庫にやって来たのかもしれない。見えない影を追うように。


   どうして死んじゃったんだろう。どうしてなにも言ってくれなかったんだろう。どうして気がつけなかったんだろう。


   授業用ノートを作る手が止まり、どうして、と後悔の渦だけが深くなる。もし彼が生きていたら、私は彼と一緒に夢を追っていただろうか。もし彼が生きていたら。私にも研究者という道が開けていただろうか。


   思考の渦が、どんどん暗く、深くなってゆく。――ああ。ダメだ。私はこんなにも彼に囚われている。


   気分を変えようと立ち上がり、向かう先はいつもの場所、体育館の裏側。ここは人通りも少ない格好の息抜きスポットだ。Peaceと書かれた金色の小箱とスマホだけ手に取って、先輩教師に断って小走りで向かう。


   忘れたくない。彼のことを。どうして置いていってしまったの。忘れたい。彼のことを。もうこの暗くて重い後悔から抜け出したい。相反する思いが思考を支配して、それから逃げ出すように足が速くなる。


「―――――」


   逃げるようにして吸ったタバコは仄かに苦く、後味ですっと残るような甘味があった。
(……兵助も私も、タバコ嫌いだったのにな)


   ねえ兵助。私はこんなにも変わってしまったよ。嫌いだったタバコを日に半ケース吸い潰すほどに。ねえ兵助。私はこんなにも変わらないよ。あなたを思って寂しく泣くほどに。


   左手に持ったタバコ箱がくしゃりとひしゃげた音を出す。


   ………ねえ兵助。私もう無理だよ。あなたのいた世界がこんなにも恋しくて愛おしい。私もそっちに行きたい。


   涙で濡れた唇がしょっぱい。タバコの甘さをかきけしてしまった。


   いけないいけない、と潰れた箱からタバコを取り出す。ライターで火をつけ一服する。この瞬間が一番無になれる。恋人のようでそうでなかった彼からも、かったるい仕事からも。


   周りからは部活に打ち込む少年少女の音がする。ああ。こんな青春、私にはあったっけな?  ずっと本を読んでレジュメを作って、みんなと一冊の古典について語り合って……。なんだか大学生ごっこをしながら三年間を過ごした気がする。それから進学して、学術サークルで兵助に出会って、研鑽しながら同じ時を過ごして…………。ああ。懐かしいな。なんて思い、壁にもたれかかって目を閉じた。


   瞳の奥に映るのは微笑んだ彼の姿で。ああ。やっぱり私は彼といたかったんだなら、と思った。


   滲みそうになる涙を紫煙を飲み込むことで誤魔化す。気持ちなんて全く誤魔化せないけど、せめてのドーピングにしてやっていくしかない。


   ゆっくりと肺と脳髄を犯す紫煙を全身で味わう。


「先生………?」


   喪に伏す毎日が少しだけマシになってゆく瞬間だった。





   瀬田果歩子。今年新任の国語教師。授業の内容は興味がある人はおもしろい。そうでなければ眠い。たまに真面目に聞くとおもしろいし楽しいよ、と角名が言っていた。俺からすれば墨のような黒髪の向こうに見える青い瞳がやけに印象に残る女教師。その教師が今、目の前にいる。


   甘く尾をひく煙に犯された肺と、紫煙の向こうに見える青い瞳がぼんやりとこちらを捕らえる。


「先生……?」


   右手に持たれた白く細い葉巻が見える。瞬間驚いたように目が丸められ、いたずらがばれたかのように細められる。


「内緒」


   そう言って人差し指を唇に当てて笑った。


「……あーそっか。治くんバレー部か。ここよく来るの?」


「たまに。人気なくて落ち着くんで。先生は。ここ禁煙ですよ」


「だから黙っててね。特に黒須先生には」


   そう言って細められる瞳はどこか悲しそうに揺れていた。口は穏やかにゆるく弧を描いているというのに。


「あ。私そろそろ戻らなきゃ」


   そう言って足元の小石を蹴飛ばす先生には先ほどの悲しみの色はなく。どことなく吹っ切れたようだった。


「じゃあ、治くん。この件はこれっきりで」


   こちらを射抜くように青い瞳がこちらに向く。


「は、はい………」


   うん。わかった。と満足気に頷いて去ってゆく小さい背中を俺は黙って見ることしかできなかった。


「なんやねんあれ」


   悲しげな瞳も、紫煙をくゆらす諦めの色も、俺はなんも知らん。吹いた風に微かに残る甘いタバコの銘柄も。


   ラピスラズリの瞳と、金甘いタバコだけが俺と先生を繋ぐ縁だった。


(瀬田果歩子先生か………)


   この甘い香りをかぐたびに彼女を思い出すんだと思う。


(また明日会えへんかな)


   柄にもなくそう思った。


   ラピスラズリの瞳が嫌にこびりついている。

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