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​ラピスラズリの残像02

   また会いたいという願いは、意外にもすぐ叶ってしまった。


   二限、古典の授業。


「昔、男ありけり。その男、伊勢の国に狩りの使いひに行きけるに、……」


   教科書を見るために伏せられた群青の瞳。そのすぐ下の薄い夕焼け色の唇からは怪文章が漏れる。


   『伊勢物語』。昔男と呼ばれる在原業平がモデルの男の歌物語。恋の話が圧倒的に多い。
  先生の玲瓏な声が俺を眠りに誘う。それを拳を握って眠気に抗う。あれ俺なんで寝えへんのやろ。いつもやったら爆睡やのに。


   ――内緒。


   そう悲しげにされどいたずらがばれた子供のように笑う瑠璃の瞳が忘れられないんや。夜の湖水のような色が。


「ちょっと脱線しますが、この教科書の素晴らしいところは……」


   そう言って授業内容から脱線した話をしだす先生の声は心なしか上擦っており、頬も薄桃に染まっているように思えた。


「………だからもう教科書グッジョブって感じなんですよね~。これからも菱田春草をよろしく頼むって感じ」


   菱田春草についてレポート書いてきてくれれば成績に加味するよ、なんて笑った先生には昨日の悲しみは見えなかった。




「……で。治どうするの?  レポート書くの?」


   昼休みの空き教室、紙パックの牛乳を啜りながら探るような視線を向けてくる黒曜の目。角名は俺は書くけど。なんて言いながら惣菜パンに噛みついた。


「いや……………書く、たぶん書くけど………。先生がなんの話しとったんか全く覚えてへん………」


   ずっと宝石みたいな目ぇ見てました。なんて言えるはずもなく。


「なんか教科書の挿絵の人が先生と同郷の画家で最近ゲームにも出てくるくらい有名になったから嬉しいんだって。で、その画家結構すごいらしいから調べてみて。だってさ。てかあんなに食い入るように先生見てたのになんも覚えてないの?」


   呆れを通り越した声を浴びせられる。


「俺そんなに見とったかなあ……」


   俺が見たくて見とるんやない。あのラピスラズリの瞳が俺を惹き付けるんや。


   はあ、とため息をつき頭を抱える。寝ても覚めても飯と先生の瞳のことばかり考えとるってこれ重症やないんか?


   とりあえず飯食って忘れよ。そう思ったけれど、いくら飯を食えども群青の瞳は忘れられんかった。




「あれーー?  治くんどないしたんですかぁーー?  まさか恋の病とか?」


   ため息を一つ。レポートを打つ手が止まる。菱田春草。朦朧体。横山大観。黒猫。教科書の挿絵を描いた人。先生が好きな画家。俺の中で処理できる情報なんてそれだけだ。あるようでない情報を必死に繋いだレポートはなんだか幼稚な作文に思えた。でも先生は頑張った分だけ公平に評価してくれる人だから、俺のへぼいレポートもそれなりに評価して、けして高くはない古典の内心に少しだけ手を加えてくれるのだろう。そう思うだけで少しだけだるかったレポートもやる気が沸いてくるから不思議だ。あの青い瞳に俺の文章がどう映るのか見てみたい。


   そんな矢先の、双子の片割れからの一言。


   ――恋の病。


「は?  恋?  おらんわそんなん」


「そーなん?  お前この前果歩子先生告られとったとき、すごい形相やったぞ。なんちゅうか、苦虫潰しながら怒りに耐える顔」


   見物やったわ、と笑う侑を前に俺の思考は暗転する。


   好き?  俺が?  瀬田先生を?  いたずらがばれた子供が今にも泣き出しそうな悲しさを湛えたような笑い方をする人のことを?  あの悲しそうな群青を?


   腹の奥で熱いなにかが渦を巻くのがわかり、思わず腹を掴んでしまう。


「恋なんかと、違う。これはほっとけないんや」


   そう。全てを諦めたかのように遠くを見てタバコを吸う姿も悲しげな青い双眸も全て。放っておけない。そしてできることなら俺に笑ってほしい。それだけだ。


「ふーん…………。良い子やとええな。その子」


   いたずらっ気たっぷりに笑った侑の顔が群青の瞳を思い起こさせて少しだけ胸がつきりとした。





「レポートの感想?」


   三週間ぶりにエンカウントした先生はまた甘ったるいタバコを吸いながら遠くを見ていた。


「はい。どやったかなって」


   レポートを提出してから三週間、授業で先生を見かけることはあってもこうして体育館裏で見かけることはなかった。煙る甘いタバコの香りさえ懐かしく思えるほどに。


「レポートはね、なんていうか、高校生が書きました、って感じだったよ」


「はあ」


「別に良いんだけど、調べたことを繋ぎ合わせました、って感じ。そこから疑問点とか浮かべて調べて持論を書いてほしい」


 まあ、高校生相手にそこまで求めてないから大丈夫だよ。と苦笑しながら紫煙を吐かれた。


「まあ、レポートなんて提出自由なのに出してくれるだけ御の字だしさ。ちゃんとそれなりに評価はつけるよ」


   微笑みを残したラピスラズリは、あ。そういえば、と声を漏らした。


「角名くんに新刊持って来たからできれば部活終わりに取りに来て、って言っといて」


   新刊。


「なんのことですか」


「漫画貸してて。あと調理部のご飯の余り分けてるの。お金払ってもらってるけど。

あんまり生徒相手にそういうことしないんだけどね。角名くん仲良いから」


   そう言ってはにかむ先生は、また困ったようにはにかんで人差し指を唇に当てた。


「こんなに仲良くしてるの角名くんだけだから、内緒にしててね。内緒」


   困ったように眉を下げてからバイバイと小さく手を振って調理室に戻る先生。今日も先生の笑顔は見れなかった。


   タバコの甘い匂いだけを残して、あの人は去って行った。


   ……また先生の笑顔を見ることなかったなあ。


   タバコの甘い香りだけが辺りを漂っている。




「なあ瀬田先生ってどんな人なん?」


   部活終わりの更衣室。角名に先生の伝言を伝えて訊いてみた。


「どんなって………。おもしろい人はおもしろい授業するよね。俺はおもしろいと思のことってるけど。あとは漫画が結構好きで結構エグいの貸してくる。彼氏は………ちょっとわかんないけど」


   いきなりなに?、と疑念の視線を向けてくる角名。


「いや別に先生のこと気になっとるわけでは……見てるのに、笑った顔見たことないな、と。あと目の色」


   笑顔が見たいが第一目標であるが、彼女のあのラピスラズリの瞳に惹き付けられた人は多いと思う。    


「ハーフなのかなあの人。あのは日本人には出せない青だよね~。ってことでハーフ疑惑かかってるよ」


「あ~。確かに。ハーフ言われても不思議ではないな」


   肌白いし。鼻筋も通っているように思える。 

 
「治訊いてきなよ。先生仲良くなれる良い機会じゃん」


   俺今日漫画取りに行くし、ついてくれば?、挑発的に笑うチームメイト兼クラスメイトはどこか状況を楽しむかのように笑っていた。




「果歩子先生は彼氏おらんのですかぁ~」


   なんやねんこいつ。


   角名の漫画の貸し借りについていこうとした矢先、俺も行く!!、と着いてきた双子の片割れ。


「先生、忘れてくださ……」


「彼氏?  彼氏なんていないよ。ここんとこずっといない」


   長い黒髪を首の付け根で押え、素っ気なく返される。青の瞳は煩わしそうに澱んでいる。
「侑くん、だっけ?  双子の。そんなこと訊いてどうするの?」


「どっかの誰かが彼氏おるんやないかって不安がっとるんですわ。先生よう告白されとるし」


   状況を楽しむかのように笑う侑に軽い殺意を覚える。せやから俺は先生が気になるだけで好きなわけやない。


「告白、ねえ…………。みんな周りに年が近い大人がいないから私が良く見えちゃうんだよ。実際は………」


   そんなことない、とでも言いたそうに歪められた群青の瞳は苦しそうに澱んでいた。


「もうこんな話はお仕舞い。帰んな」


   先生はそう言って角名に漫画を押し付け、金色の箱を持って出て行った。




  「先生彼氏いないんですか」。赴任してから中途半端に自我が育った子供たちに浴びせられた言葉。いい加減もう慣れなければいけない。彼らに悪意はないはずだ。ゆっくりと心の毒を混ぜながらに息を吐く。


   彼氏なんていなかった。けれど、彼氏と呼べるような人はいた。たぶん彼氏の存在を問われて気分を害する私に対して、俺がいるじゃん、笑って背中を叩いてくれる人が。


   ――果歩子はなにも悪くありません。


   彼の遺した言葉がリフレインする。そんなの嘘だ。なにも気づかずに隣で笑っていた私に、あなたの心は少なからず潰れていったのではないか。


   ――果歩子はなにも悪くありません。


   なら私に相談してくれても良かったんじゃないの。私じゃダメだった?  私じゃ頼りなかった?  ずっと一緒にいられると思ってたのに。


   ーー果歩子はなにも悪くありません。    


   本当かな?  ただ黙って友の死路を見送っただけじゃないか。別れの挨拶、嘘でも好きと言っておけば。あなたの未来は変わっていたのかもしれない。


   私は、兵助あなたになにをしてあげられた?  唯一無二の君に、私が。


  ついていたタバコを衝動的に揉み消して、ふいにPeaceと書かれた箱を潰す。それから新しい一本を。


   ゆっくりと火をつけ煙を飲む。甘い香りが肺と脳髄を犯してゆく。


   ああ。なにも考えられなくなる。ただただこの甘さに酔って、痺れてゆく。頬を伝うしょっぱい水に気がつかずに。
  

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