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歪曲

◇        ◇

 

 

五、

 

「焦凍、おれたちずっと一緒だね」。その言葉そのままに俺たちは春を九回ほど共に過ごした。進学先も一緒。なんならクラスも同じ年もあった。ランドセルを卒業し、少し大きめの制服を身に纏っても、関係は変わらない。

 俺が焦凍を肯定して、焦凍が安らぎを得る。端から見ればそんな関係。本当は俺が焦凍を憐れむことで安らぎを得ている。そんな関係。

 変わったことがあるとすれば、焦凍が俺の背を越し、声が低くなり始めたくらいだ。

 俺たちは、なにも変わらない。

 

 

□        □

 

 

六、

 

 俺が個性を得た日の話をしよう。

 六歳、小学校低学年。まだ読める漢字もそんなに多くなくて、字が大きくて絵が入った本を読んでいたような歳。「なんでも良いからお話を書いてみよう」という授業があった。

 みんながヒーローが、もしくはヒーローになった自分が格好良く敵を倒してゆく話を書く中、俺一人だけ敵も自由に生きられる世界の話を書いた。「誰が善悪を決めるのか。その敵はその美しくも醜く歪んだ社会の決めた善を誰よりも愛し、憎んでいた。だからこそ、敵は敵でいられ、ヒーローもまた存在する。おれはこの社会が憎い」。こんな感じの話。

 ヒーローが絶対的な善で、敵が絶対的な悪の個性社会。社会の仕組みを否定するような俺の作品は、教師にとって想定外のことだったのだろう。放課後親が呼び出され、作文用紙と共にカウンセリングに連れていかれたのを覚えている。

 個性がある社会では、ヒーローは絶対的な善で、敵は絶対的な悪。これに異を唱える者異端なのだ、と。社会のはぐれ者なのだ、と。個性を持たないおれと同じように。

 白い部屋、一本の観葉植物が置かれた部屋。母とカウンセラーと俺。たった三人だけがいる世界。カウンセラーが静かに作文用紙をめくってゆく。

「伶人くんは、どうしてこのお話を書こうと思ったのかな?」

「だって変じゃありませんか? みんなが個性を持っていて、それを自由に操れる社会なのに、同じように個性を振りかざしているヒーローは褒められて、敵は憎まれるだなんて。なにが善悪を決めるんですか。敵だって、誰かにとってのヒーローかもしれないのに。カラスに食べられそうになっている野良猫を助けることは悪ですか? それとも善ですか? ヒーローと敵だって、これと同じだ。そう思ったからです」

 ヒーローは正規の手続きを受けて、ふさわしい人間しかなれないこと・社会が相応しいと、必要だと思った人間しかなれないこと・おれが危険だと感じた人は俺にとっての敵だ、とカウンセラーは言った。

 だったらおれにとっての敵はお父さんとお母さんと、社会の全てだ。おれを見てくれない人たち。受け入れてくれない人たち。みんな、全てだ。しょうとを除いて。

 改めて理解した。個性がなければ、愛されなければ存在理由がないのだ、と。

「なるほど。そうなんだね。では、お母さん。伶人くんは読書がお好きですか? 漢字がどれくらい書けますか? 語彙は多い方ですか?」

 作文用紙を置いたカウンセラーはある種の確信を持った目で母を見つめた。

「六歳でこれだけの語彙と文章力があるのなら、単に学習能力が高いか、それに隣接した個性を持っているのかもしれません。再度個性検査を受けてみてはいかがでしょう」

 

 

 テーブルの上に並ぶおれの好きな食べ物・喜びを隠しきれない浮ついた空気。きっと冷蔵庫の中にはケーキが入っている。さっき病院帰りに買ったから。

 誕生日を連想させるこの空間。

 そう、本日、佐藤伶人六歳は、個性があることが確認された。

 個性:吟遊詩人。卓越した文章が書ける能力。ありとあらゆる楽器が弾ける能力。

 母親の音楽の個性が文章に特化したような個性だったようだ。音楽一族の母と違い、個性である文章を書く能力を使う機会に恵まれなかったことや、文章を書く知識を蓄える機会にここ六年を費やしていたため、個性の発見が遅れたのだと医者は言っていた。

 正直こんなのがおれの個性?、といった感じだ。本を読んでいたのだって、半分趣味で、半分は個性のある人たちから目を逸らすためで。おれが特別文章を書くのが上手いとは思わない。今までの蓄積だろ? これは、個性じゃなくて、過去の行いのたまものだと思う。

「やだ、お父さんどうしよう!! この子将来は芥川賞作家よ!!」

「サインの練習しておかなくちゃなぁ」

 なんて安心した顔で喜ぶ両親。

 なんなんだろう。おれよりはしゃいじゃってさ。

 心の中の溝が、さらにどんどん深くなる。黒い吹き溜まりからなにかが湧き出して来る。

 ――ああ。やっぱり、個性がないと愛されないんだ。

「お父さん、お母さん。おれがんばって作家になるよ」

 これは個性なんかじゃないよ。今までの努力のおかげの力なんだよ。けれども、個性だと信じて喜ぶ親の期待に応えなければ。おれの居場所はなくなってしまう。

 心に大きなつきり、と針が刺さるような音がした。お父さんとたちが好きなのは、「個性がないおれ」じゃなくて、「個性があるおれ」なんだ。今までこんなに喜んだことないくせに。個性がないことをもったいない、って言ったくせに。

 おれの個性は個性じゃない。

 ねぇ、お父さんお母さん。個性じゃなくておれを見てよ。おれを見てくれないなら、こんな「個性」いらないでしょ?

 親が喜ぶほど、おれの心は重くなってゆく。期待に応えなきゃ。期待に応えなきゃ、捨てられる。

 ふ、と脳裏に、紅白のツートンカラーがよぎる。

 ねぇ、しょうと。その痕、痛い?

 心の中でそっと、振り返った赤に手を伸ばした。

◇        ◇

 

 

七、

 

 変わったことがあるとすれば、周りだろうか。

 中学二年生。一四歳。思春期。互いが異性を意識し合い、色めき立つ時期。人生の春。青春。

 誰が誰を好き、なんて噂も増えれば、遠巻きに焦凍を見つめる女子も増えた。

 それに比例して、俺に話しかける女子も増えた。

「佐藤くん、ちょっといいかな?」

 ほら今日もまた、焦凍を慕う女の子が一人。頬を赤らめながら、視線を彷徨わせている。

 良いよ、と答えながら席を立ち、人気の少ない廊下へ歩む。

「……いつ、どこへ焦凍を呼べば良いの?」

 焦凍の顔は同性の俺が見ても格好良いと思うほどに整っていた。背は高いし、体は引き締まっているし、鋭さを持った目も、低くなった声も。火傷の痕さえ、彼を美しく見せる要素になっている。俺に縋って泣いていたしょうとは、いつの間にか格好良い焦凍だと世間に持て囃されるようになっていた。

「……放課後、第二校舎の第一理科室」

 か細い声で呟く少女の瞳は涙がいっぱいで、目の淵から真珠が零れ落ちそうだな、なんて遠くで思った。

「わかった。伝えとく」

 告白するなら直接焦凍に言えば良いのに。伝書鳩役も案外疲れるのだ。

 そっと溜息をつきながら、窓の外を見る。なんてことのない、ただの道だが、一瞬窓に焦凍が映ったような気がして。告白場所を伝えると焦凍は決まって顔を歪めるから。そういう顔は俺の発言でしてほしい。知らない女の言葉でするなよ。焦凍を汚すのは、俺だけで良い。

「……ねぇ、恋をする、ってどんな感じ? 焦凍のどこが良いの?」

 心の中の黒いガスが口を通って吐き出される。この女のせいで、これから焦凍が顔を歪めるのが我慢ならない。

「えっ………。えっと……」

 一瞬驚きながら、戸惑いながら、答えを探す彼女。

「その人のことで頭がいっぱいになるとか、考えるだけで胸がドキドキするとか、一緒にいたい、って強く思うとか……。そんな感じだと思う」

 顔を赤らめて、好きでもない男の前で恋を告白する彼女は、健気でかわいい。そしてそのひたむきな姿勢は美しいとさえ思えた。

「誰かに愛されたくて、徹底的に一人に優しくして、どろどろに甘やかして俺だけのものにしてしまいたい、と思うのは、恋だと思う?」

 誰かに・なにかに対してほしいほしいと強く願うことが恋をする、ということなら、俺はとっくの昔から恋をしている。愛されたくて、必死に手を伸ばして、焦凍を踏みにじっている。

「その誰かは轟くんのこと?」

 恐ろしいものを見るような、絶望を微かに光らせた双眸がこちらに向けられる。

「……どうかな」

 俺はいつでも焦凍がほしいよ。俺だけの可哀そうな焦凍でいてほしいと思ってるよ。

 窓に映った俺は、悲しそうな微妙な笑みをしていた。

「佐藤くんはさ、轟くんに愛されたくて、だから支配して、轟くんの気持ちを誘導してるの……?」

 涙に濡れた絶望の瞳に怒りの色が灯ったのを感じた。

「歪んでるね。いつも一緒にいる佐藤くんにはわからないよ。轟くんが可哀そう」

 そうだよ。焦凍はいつも可哀そうだ。あんなに強い個性を二つも持っていながら、母を守れず、個性故に傷ついて。あんなにも、臆病になっている。縋るものが俺しかいなくて。俺だけに甘えて。可哀そうで可愛そうな可愛い焦凍。愛しい焦凍。あいつの隣にいるのは、俺だけで良い。あいつと俺の二人だけの世界が、心地良いんだ。

 心の黒い染みがまた深くなってゆく。

 

 

◆        ◆

 

八、

 

 いつも通りの帰り道。佐藤と二人で歩く道。さり気なく佐藤を車道から遠ざけて歩く、見慣れた景色。今年クラスの離れた俺にとって、なにより至福の時間だ。今日はなにがあった・どの授業の先生がおもしろかった・昨日テレビの話……。どうでも良いような些細な話を積み重ねる毎日が、俺の心の傷を癒してくれる。そんな日々が、いつまでも続けば良いのに。

 今日は佐藤の様子がおかしい。首が、斜めに傾いている。

 だいたいこういうときの佐藤は悲しいことがあったときだ。無意識に首を傾けて、片目からそっと静かに涙を流す。誰にも頼らず、独りで泣く。

「なんかあったのか?」

「なにもないよ。それより、焦凍は今日も告白断ったの? あの子、結構一途で可愛い人だと思ったのに」

 遠いどこかを見つめ、目を細める佐藤。

 どこかじゃなくて、俺を見ろよ。今話してんのは俺だろ? なんで一人で泣くんだよ。俺を頼れよ。俺たちずっと一緒なんだろ? なんでお前はそうやっていつも抱え込むんだよ。

 心が焦りと怒りとやるせなさでいっぱいになる。こっちを見ろよ、佐藤。

「ねぇ、」

 いつもより少し上ずった声が耳朶に響く。

「人に恋する、ってどういうことなんだろう。愛されたい、って思うのは、悪いことなのかな……」

 消え入りそうな、今にも泣きそうな声だった。こんな佐藤を見るのは初めてだ。俺の知っている佐藤は、いつも強くて優しくて、ほしい言葉をかけてくれる、母親みたいな、そんなやつ。

 弱った佐藤なんて初めてだから、なんて言葉をかけて良いのかわからない。俺の居場所がこんなにも弱々しく、揺れている。まるで、火傷を負った日の俺のように。

「……どうしても側にいたい。その人に許されたい。愛されたい。そう思うのは当然のことだと思う」

 俺がかつてお母さんに求めたように。今、お前に求めているように。

 佐藤の隣はいつも心地良い。ほしい言葉を、優しい瞳でかけてくれるから。ずっとこのまま一緒にいたい。悲しい瞳をしながら火傷の痕に触れてくる佐藤を、俺は救いたい。

「佐藤。お前は、なりたい自分になって良い」

 血に囚われずに。全ての柵に囚われずに。なりたい自分に。どうなろうとも、お前はお前だから。

 

 

◇        ◇

 

 

九、

 

 「なりたい自分になって良い」。そう言われたとき、ひどく動揺したのを覚えている。もう一四なのに、男なのに。目から涙が溢れそうになって、声を上げて泣きたくなった。

 思わず、胸のあたりギュッ、と掴む。堪えろ。耐えろ。情況を悟らせるな。

「……なりたい自分、か」

 そう吐き出した声は震えていただろうか。俯いてはいたけれど、どんな顔をしていただろうか。焦凍には悟らせてはいけない。俺がしっかりしなければ。俺がか弱い焦凍を守らなければいけないのだから。

 俺は、個性なんてなくても、俺そのものを愛してほしかった。

俺を見て? 個性じゃなくて、俺の内面を見て? 俺がどんな奴かを、俺の性格を見て? 愛して。お願い。お父さんにもお母さんにも愛されなかった俺を。個性が発現したことで、初めて「人間」になれた俺を。

誰が俺を愛してくれるんだろう。

 個性がなければ、愛されない。俺のこの力は個性じゃなくて、努力の賜物だろ?

 誰にも見向きもされない、社会から置いていかれた俺を、誰か。誰か見て。お願い。愛して。好き、って言ってよ。

 ほしいよ。ほしいよ。愛がほしいよ。

 なりたい自分があるとすれば、「誰かに愛される自分」になりたい。愛される自分がほしい。だから焦凍、お前が必要なんだ。俺よりも不幸で、個性を持ちながら個性に囚われたお前が。個性故に傷ついたお前が。無性に愛おしくて、憎らしい。俺のかわいい焦凍。

 心の闇がどんどん深く、汚らわしくなってゆく。

 

 

◆        ◆

 

 

 なにかがあったんだ。俺の預かり知らないところで。泣きそうな声で「なりたい自分」と繰り返す佐藤は、脆くて今にも溶けてしまいそうに見えた。

 なんで俺に言わねえんだよ。俺はそんなに頼りないのか。俺はお前の力になれねえのかよ。

 思わず悔しさで拳を握ってしまう。無意識に食いしばった歯がギシギシと音を立てる。

 瞬間、肩を揺らし俺を見上げた佐藤と目が合う。

 傾いた首。下がった左目からは涙が一筋。

「ねぇ、焦凍」

 いつもよりも少し高い、揺れた声が胸を貫く。

「ここ、痛い?」

 悲しさと、優しさをごちゃ混ぜした瞳と指がお母さんの痕をなぞる。

「…………もう痛くねえよ」

 痛いのは、お前の方だろ?

 俺たち、お前の言ったようにずっと一緒にいるよ。悲しそうに笑うお前を助けてえと思うよ。

左手で鳶色の瞳から溢れる涙を拭う。

俺の左手を包むように掴んで目を閉じたこいつはなにを考えているのだろう。

「……焦凍。焦凍、ありがとう。もう大丈夫だから」

 もうそんな悲しそうに笑うなよ。

 俺たちの関係は変わったよ。伶人。

俺は、お前を助けたい。

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