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北さんとお付き合い
「好きや。付き合うてくれ」
首肯すれば、退屈な毎日が終わると思った。
<【新品新作】不思議の国のアリス風 白地に黒の市松模様 兎に時計 トランプのあしらい 身丈150,155,160……>
ウェブサイトをスクロールする。着物着物着物。そして少しの簪と履き物、小物。七宝屋と書かれた呉服屋のサイトの今日の最新情報である。
「なんや新しいの入ったんか」
後ろから肩を捕まれにゅ、と覗きこまれる。信介さんだ。
「あ……。うん。あのね、このアリス柄のなんやけど、うちが入れてほしい言うて入れてもろうたんよ。本当に入ると思うてへんかったから嬉しくて……」
「仕入れまで手伝っとるんか。さすが跡取りやな」
そう言って感心したように首肯する毛先が黒みがかった白銀の髪を見る。
北信介。強豪稲荷崎高校男子バレーボール部の主将。結果より過程を重視する堅実なプレーをする男。
「そんなことあらへんよ。うちなんてまだレジ打ちしかできん」
そんな稲校生なら誰でも知っている男が、私の彼氏だ。
白銀の髪、猫のように縦に入った瞳は金色。私の黒髪を遊ぶ指は白く長く、そして嫌というほど優しい。
どうして、こんな優しい人が私の彼氏なんだろう。どうして彼は私が好きなんだろう。私にはそれがわからない。
〽花の外には松ばかり 花の外には松ばかり
暮れ染めて鐘や響くらん
鐘に恨みは数々ござる初夜の鐘を撞時は
諸行無常と響くなり
京鹿子娘道成寺。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す話の後日譚。鐘供養に道成寺へやって来た清姫の化身の白拍子が踊るうちに徐々に招待を顕していく愛の狂気ともいえる舞踊劇だ。
「唄ちゃん身ぃ入ってへんやろ」
ピシィ、と扇子を閉じた踊りの師匠が蛇のような睨みをきかせる。
「はい。すみません。清姫の気持ちがようわからんくて……」
また会いに来るよ。そう約束した男が会いに来ないのはどんな気持ちだろう。追えば追うほど逃げられてしまう気持ちは。最終的には人をやめ、その身を蛇に落としてしまう気持ちは。
人間をやめてしまうほどに恋焦がれた人間なんて私にはいない。
チリ……、と簪の飾りが音を立てる。朱色の玉簪には日本の下げ飾りがついている。赤と白を基調としたその飾りはシンプルだが上品さを湛えていた。
(あの人が好きそう………)
簪をくれた人を思い出す。恋人である彼が、私に初めて贈ってくれたものだ。
ーー簪しとるんやな。
ーーこれ、お前に似合うと思うて。
いつもの無機質な顔をして差し伸べられた一本。日本舞踊の稽古で初めて主役がもらえたお祝いにくれたものだ。
なにをするにも二の足を踏み、踊りでもなかなか大役が貰えない私を初めて肯定してくれた一品だった。
(これがうちの道成寺の始まりなんや)
ぎゅっ、と簪を握る。主役おめでとう、と言ってくれた一本が仄かに熱をもった気がする。
………でもね、私、最近信介さんの気持ちがわからないの。
あなた、本当に私のことが好きなの?
疑惑の念が、白い心に墨を落としていった。
北信介という男は、良くいうと沈黙の似合う男、悪くいうとなにも言わない男だと、私、糸山唄子は思っている。
「ねえ、唄子。聞いてる?」
高校三度目の春。四月。お昼時、箸を片手に友人はいぶかしむように訊いてきた。
「うん。聞いとったよ。六月の芸術鑑賞会の話やろ?」
稲荷崎高校は周辺の高校と合同で年に一度バレエなど、古典新作を問わず、教養の入り口として舞台芸術を鑑賞する機会がある。
「でも凄いよなあ~。ついに唄子が主役かあ。おめでとう」
目を細めてからからと笑う友人の顔は祝福に満ちていた。
「もう止めてよ〜。主役いうたってもう四月やのに役自体も掴めてないんやから……」
今年の六月の芸術鑑賞会は日本舞踊だ。そしてそこで私は主役を演じることになっている。
演目は京鹿子娘道成寺。道成寺ものと呼ばれる道成寺シリーズの中でも代表的なものだ。
「……嫉妬に狂う女の気持ちなんて、わからんよ」
だって私は、嫉妬するほど愛されていない。信介さんの部活もなんだか行くのが申し訳なくて見に行ったことがないし、たまの休みが合ったときも、二人で黙って歩くことしかしない。たぶん、一緒にいることが幸せ、ってやつなんだと思う。でもそんな細やかな幸せだけを享受できるほど私は穏やかな存在じゃない。だって信介さんには、もっとお似合いな存在がいるじゃないーーーー。
向けた視線の先には白銀の髪の彼とすらりとした長身の女の子がーー。
〽ふっつり悋気せまいぞと
たしなんで見ても情なや
女子には何がなる
殿御殿御の気が知れぬ
気が知れぬ
最近信介さんはあの子と一緒にいることが多いと思う。垂れ眉でややつり目、襟足が首にかかるショートカットが似合うすらりとした長身の女の子。たぶん、女バレの人。私と一緒に食べたことのないお昼も食べているし、私の知っている限り、信介さんと仲の良い女の子は彼女だけだと思う。
ーーあの子誰なんですか? 信介さんのいい人なんですか?
そんなことが訊けたらどれだけ良かっただろうか。
私と話ているときと違って、顔に生き生きとした色を乗せる信介さんを遠目に見ながら思った。
ーー信介さん、私のことどうでも良いんじゃないの。だから他の子の前ではあんなに豊かな表情するんじゃないの。
〽言わず語らぬ我が心
乱れし髪の乱るるも
つれないは只移り気な
どうでも男は悪性者
最近、唄子の様子がおかしいのはなんとなく気づいとった。もともと控えめな性格もあるのだが、返事も生返事で、どこか遠くを見ている。
「……それでな、唄子最近疲れとるみたいやし、どこか息抜きに行かへんか?」
やっととれたオフ、常なかなか構えない分、彼女を甘やかしたい。
彼女の髪に手を伸ばす。墨色の豊かな黒髪は浅葱色のとんぼ玉にまとめられ、さらさらと手の中で流れる。
遠くをぼんやり眺める唄子の意識を戻すように目の前で指を鳴らす。
「…………信介さん……?」
意識をこちらに戻した唄子と視線がかち合う。鳶色の瞳はどこか悲しげだった。
「今度一緒にどこか行かへんか?」
もう一度誘いをかける。今度は瞳を覗きこんでゆっくりと。
「……でも信介さんの迷惑になりませんか? うちなんて……」
瞳をゆっくりと反らされる。控えめなのは唄子の魅力だが、最近否定的な意味を含んだ台詞が多くなった。日舞の役作りに悩んどるとかいう話は耳に入っている。そんな日常の悩みでさえ話てくれないほどに俺は頼りないのか。
「迷惑やあらへんよ。唄子この前行きたい言ってたパンケーキ屋あるやん? 一緒に行こうや」
俺にはなんだって話てほしい。だって俺、彼氏やろ? 願うように、揺れる鳶の瞳を覗きこんだ。
白地に市松模様、兎に時計、トランプの模様をあしらった着物に、黒地に白レースの半幅帯はシンプルにかるた結び、足は茶色い編み上げブーツ。信介さんとのパンケーキデートの格好だ。髪はお下げ。使用人がしてくれた。
道成寺の役作りに悩んでいるのがバレたのだろうか。部活で忙しい信介さんがわざわざ時間を作ってくれるのだ無下にはできまい。
(信介さん、まだかな)
一四時四○分。待ち合わせにはまだ二○分ある。信介さんを待ちながら、道成寺の長唄を聞くことにした。
〽西も東もみんなに見にきた花の顔
さよえ
見れば恋ぞ増すえ
さよえ
可愛らしさの花娘
青緑色のパンケーキが、俺と唄子の間に運びこまれる。瞬間、わあ、と矯声と共に正面の唄子がパンケーキと同じ色したスマホで写真を撮る。
「ごめんな。信介さん。ちょっと興奮してもうて……」
「ええて。気にしとらんし。ほな、食べよか」
緑のパンケーキを縦に割る。分厚いパンケーキに沈んだナイフは思ったよりもあっさりと皿まで届いた。
いただきます、と正面から小さい声が漏れる。白い着物に美しい黒い髪がよく映える。
「その着物、前仕入れた言っとったやつか?」
「うん。うちもほしくて別に仕入れてもらったんよ」
ゆるゆると弧を描く口と、恥ずかしそうに伏せられた目がかわいらしい。
「よう似合っとる」
そう言って髪に手を伸ばすと、「信介さんはいつもこればっかやね」と微笑んで、俺の手を包み込んだ。
しばらく俺の手を擦ったりツボを押してみたり、弄んでいた唄子は、ふと目を据わらせてこう言った。
「信介さんは、嫉妬したことはある……?」
鳶色の瞳は不安に揺れていた。
「あのな、うち、今回の芝居、嫉妬に身を焦がす女の役やんねん。嫉妬に狂った女が蛇になる役なんやけど…………」
どうしても気持ちがわからんねん。信介さんはわかる?、と震えた声を漏らした。
「嫉妬……か。これが役に立つかはわからんけど、俺がもっと大手をふって、唄子は俺の彼氏や、言えたらええな、と思うことはあるで」
部活の休憩中、級友と帰る唄子を後輩が姿勢が良くておしとやかそうな子だ、と言ったとき。昼休み、異性の友人がお嬢はかわいらしいと言ったとき。どや俺の彼女かわいらしいやろ、と。
「………どうして、信介さんはうちとの関係を周りに明かさんのですか」
震える声が俺の心臓を刺す。
「明かしてくれへんのは、もしかして、」
ーーうちのほかにええ人がいるんと違いますか。
そう言った唄子の声は硝子のように硬く冷たかった。
〽さうなる迄は
とんと言わずに済まそぞえと
誓紙さえ偽りか
嘘か誠か
どうもならぬほど逢いに来た
うちのほかにええ人がいるんと違いますか。その問いに信介さんは目を丸くして答えた。
「……おらへんよ」
なら、あの女の子はなに。どうして私に友達を紹介してくれないの。私はあなたのなに?
「そう、ですか……」
ゆっくりと息を吐いて力んだ肩からそっと力を抜く。信介さんの言葉を信じるならば、私は彼の一の人だ。周知をされていない一の人なんていないも同じだが。
私が周知されないのは、私に魅力がないから? 私がもっと美しく賢ければ、信介さんの寵も少しはこっちへ向いていたかもしれない。
「すみません。うちがあまりにも鈍やから」
彼が私との関係を喧伝しないのは、私に信介さんの彼女としての才がないからだ。こんな恥ずかしい女、彼女として紹介できないのだ。
恥ずかしい女。この一言が私を思考の海へ沈める。
私がもっとできた女だったら、彼の隣にいれたかもしれないのに。
私が彼女みたいだったら…………。襟足が首にかかるショートカットの女子が目に浮かぶ。あの子だったら、信介さんの隣を歩けるかもしれない。
一度悪いことを考えると、堰を切ったように悪いことがあふれ出てくる。
もうこれ以上、醜いことを考えたくない。もうこれ以上、醜い姿は見せたくない。
手で胸を押さえ、ゆっくり深呼吸をする。
「大丈夫か?」
と心配する信介さんに
「大丈夫」
と嘘をついて。
信介さん。信介さんがお友達を紹介してくれへんのって、うちが隣にいて恥ずかしい人間やからやろ? じゃあなんでまだ恋人でいるん? もうこの関係、終わりでええやろ?
嘘の笑顔をはりつけて食べたパンケーキは爽快な味がしたはずなのに、苦かった。
〽ふっつり悋気せまいぞと
たしなんで見ても情なや
女子には何がなる
殿御殿御の気が知れぬ
気が知れぬ
悪性な悪性な気が知れぬ
恨み恨みてかこち泣き
露を含みし桜花
さわらば落ちん風情なり
六月。ついに芸術鑑賞会が間近に迫ってきた。当然踊りの稽古も厳しくなる。
「唄ァ!!!! あんたそれで本当に男が恨めしい女のふりしとるんか!!!!」
「すみません」
師匠の激も厳しくなる。
〽鐘に恨みは数々ござる初夜の鐘を撞時は
諸行無常と響くなり
鐘を見て己を裏切った男を思い起こす場面。どうも私は恨めしく鐘を眺める場面が苦手だ。
「それで恨みつらみがこもった芝居ができとるつもりなんか。今の芝居じゃただの恋する娘さんやで」
全く話にならん、と吐き捨てる師匠。待ってください、と声をかけても満足する答えは得られない。
「まずは、嫉妬を覚えることやな。唄」
嫉妬なんて、そんなのわからない。
「嫉妬ぉ~? あんたそんなもんいつでもしてんじゃない」
共に昼食を囲んだ友人から呆れにも似た声が漏れる。
「そんなことあらへんよ。誰かを恨めしいと思ったことなんて」
「あれを見ても?」
友人が視線をくれた先には、例の女バレの子と談笑する信介さんの姿があった。
〽ふっつり悋気せまいぞと
たしなんで見ても情なや
女子には何がなる
殿御殿御の気が知れぬ
気が知れぬ
悪性な悪性な気が知れぬ
恨み恨みてかこち泣き
露を含みし桜花
さわらば落ちん風情なり
「信、介さん………」
気づいたら信介さんとあの子の元へ走っていた。
「その子が、ええんですか? その子が一番なんですか?」
絞り出した声は思いの外震えていた。
「唄子、なにを言うとるん、」
「だって うちの前ではそんな風にお笑いになりませんし、そんな気さくな感じもあらへんやないですか……!!!!」
どうしてその子の前ではそんなによく笑うの。やっぱり私のことなんて好きなんじゃないんじゃないの?
私は信介さんの一の人になれないんだ。もう隣を歩けないんだ。そう思うと腹の底から惨めさと悔しさが滲んで涙が溢れてくる。
恥ずかしい女。男一人引き止められなんて。
「唄子」
呼びかけられる信介さんの声もなにもかも嘘に聞こえる。
「いや。なにも聞きとうない」
もう私のことを必要としない貴方の言葉なんて聞きたくない。
「唄子」
私の名を呼んで伸ばされた手を振り払う。
「嫌や。あの子のとこへ行ってまえ」
嫌い。嫌い。私のこと嫌いな貴方なんて。
「私よりあの子の方がええんやろ? もううちら終わりやね」
「信介くん」
凛とした声が張りつめた空間を切り裂く。
「お嬢さんの話、ちゃんと聞いてあげなよ。昨日今日でこうなったわけじゃないだろ?」
「御厨」
御厨さんを振り替える信介さんの雰囲気は、至極真面目だが、私と話すよりは軽やかな雰囲気を纏っていた。
「お前も若干原因やぞ」
「なんでさ」
「俺と仲ええからやと」
「や、だからなんでさ??」
ぽんぽんと軽やかに会話をする様が、お似合いで羨ましい。
「…………つまりさ、お嬢さんは嫉妬してるってこと?」
若干呆れの色を含んだ瞳がこちらへ向けられる。
「嫉妬だなんて…………。そんな恥ずかしいことするような女に見えますか!?!? うちはただ……。信介さんの隣にいられんのが嫌で嫌で……」
貴方の隣に立つふさわしい女になりたい。貴方の一の人になりたい。ただ、それだけ。
「そんなことで悩んどったんか」
金色の瞳が驚いたように開かれる。
「そんなことって…………!!!!」
私はずっと悩んでた。貴方にふさわしい人であるか否かで。溢れでる涙が止まらない。こんな子供みたいにぼろぼろ泣くなんてみっともない。信介さんに嫌われてしまう。泣き止め、泣き止め、と思っても涙は止むことを知らない。
「……ずっと、悩んどりました。うちが信介さんの隣にいるのにふさわしいか。うちはぐずぐずしとる鈍やし……。こんなんやから踊りも上手くいかんし………」
「そんなことないやろ。お前は控えめやけど細やかな気配りができるし……。踊りのことはようわからんけど、悩んどることは知っとった。俺こそなんも力になれずにすまん」
「信介さんはなにも悪くないんです。うちが、うちが……!!」
「唄子はなにも悪ない」
そう言って細められる目が、涙を掬うその指が、優しく暖かい。
「信介さん……」
「今まで辛いとき寄り添えんくて悪かった」
「いいえ。うちも独りよがりな勘違いばかりして……。御厨さんも。ほんますみませんでした」
「いっ、いえ別に……」
御厨さんは信介くんちょっと、と信介さんになにかを告げ、からからと笑いながら去って行った。
「御厨さんなんて?」
「もう二度と彼女心配さすな、やと」
一つため息をついて頭を撫でる信介さん。
「ええほんま。心配させんといてくださいね」
少しの嫌味をこめて言葉を投げかけると、信介さんは少しバツの悪そうな顔をして頷いた。
「あの、信介さん一つお願いがあるんですけど」
頭を撫でる信介さんの手をとり、そっと握る。
「あの、好き、って言ってほしいんです」
あなたに愛されているという確かな形がほしい。
「愛しとるよ」
髪に落とされたキスはなによりも甘かった。
「へぇ~。お嬢さん主役張るんだ。楽しみだね」
「おん」
六月某日。芸術鑑賞会。唄子が主役を張って踊る日だ。隣の御厨は興味深そうに緞帳に視線をやる。
拍子木の音と共にゆっくりと幕が上がる。視線の先には赤地に金の刺繍を刺した華やかな衣装を纏った唄子が。
〽花の外には松ばかり 花の外には松ばかり
暮れ染めて鐘や響くらん
嫉妬に狂い男を殺した女を、嫉妬を経験した彼女はどう表現するのだろうか。
さあ、狂おしい舞台はこれからだ。高鳴る胸を抑えるように両の拳をぎゅっ、と握った。
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