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​北さんと埋め合わせ

  御厨さんのおかげで無事私と国周の恋人疑惑は解けた。信介さんはとても怖いお顔をしてらしたけど、最後には笑ってくださったから良い人なんやと思う。
 

やっと誤解が解けた日の午後。
 

「唄子。俺今日そっち泊まんで」
 

信介さんが爆弾を落としていった。
 

「ええええ…………。そんないきなり……。お客様用の布団だって……」
 

「家にはもう連絡しとる。あとは使用人さんたちがしてくれとるやろ」
 

私よりも勝手知ったるような口をきいてどんどんと我が糸山家の予定が変わってゆく。この人は、糸山家のなにになりたがってるのだろう。


「おかえりなさいませ。お嬢様、北様」

 

家へ帰ると使用人から手厚い挨拶を受ける。ささ、お客様はこちらへ、と私の部屋から一番遠い客室へ案内される信介さん。まあ、それはそうだろうな、と思いながら自室へ足を向ける。ちら、と視線を向けたら信介さんのとかち合って。その視線が少し困惑していて笑った。
 

「それにしてもお嬢様安心しましたわ。ええ人がおって」
 

「ええ人って…………。ええ人やけどそんなんやないよ」
 

衝立越しに答える。使用人は向こう側でスクールバッグを片付けてくれているようだ。
 

「ええ人やないんですか?  真面目で、誠実そうな人やありませんか」
 

「でもうちは大学出て、お見合いで結婚するんやろ?  昔からみんなそう言っとるやん」
 

自分でいうのもなんだが、家は名のある呉服屋だ。斜陽産業といえど父と母は職業と家格に誇りを持って仕事をしているし、私もそんな両親を誇りに思っている。
 

「唄は大きくなったらええとこのお店の旦那さんと結婚するんやで」。これが両親の口癖。幼いころからそう言われて生きてきた。きっと和菓子屋の次男坊とかと結婚するんだと思う。
 

ーー大きくなったらええとこの旦那さんと結婚するんやで。「大きく」なった今、結婚の話は絵空事ではなくなった。16になったころ、みんなはもう結婚できるね、なんて笑っていたが、私にとっては婚活が始まった歳、結婚が現実のものになった歳だった。
 

笑い事ではない結婚話、ただ漫然と受けるだけの授業、全く伸びない躍り。ただ繰り返すだけの色のない生活に色を与えてくれたのは信介さんだった。
  ーー好きや。付き合ってくれ。


  簡潔だが直線的な素直な言葉を今でも覚えている。
 

信介さんのことは好きだ。好きだけれど、私は彼と結婚できるだろうか。親は、父はそれを許してくれるだろうか。話を聞くに信介さんは一般家庭だし、兄弟もいないようだ。私は信介さんから北の姓を奪えるだろうか。奪うに、値する人間なのだろうか。
 

(嫌やな………)


 信介さんを家の事情に巻き込んでしまうことが。私と付き合う男性には避けられない問題ではあるが、あの誠実を絵に描いたような人を家のごたごたには巻き込めない。我が家は商家だ。着物のきらびやかな世界だけではないどろどろとした部分も多い。信介さんの誠実な白を我が家の泥で汚してはいけない。そう思った。

 


  唄子の家の使用人に言われるままに彼女の部屋から一番遠い客室に案内される。
   

使用人には俺との関係を伝えていないのか、もしくは牽制されているのか。自室へ向かう唄子を見ると、唄子は唄子で俺を不思議そうな目で見るものだから、糸山家の意図がまったくわからない。いとだけに。
 

十畳一間の部屋に掛け軸とその足元には生け花。簡素な旅館のような佇まいそれが俺の部屋になる。ゆるゆるとネクタイを外しハンガーにかける 。用意されていた桔梗柄の夜間着に手を通す。  
 

途中使用人に唄子との関係やら実家のことも訊かれた。「仲良うさせてもろうてます」。それ以上はなにも訊かれなかった。

 

ーー唄子は将来だれかと結婚してこの家継ぐんか。そしてその隣に俺がおっても良いんか。
 

「あの、唄子さんは将来ご結婚されるんですよね?」
 

「へえ。大学卒業を目処に然る身分の方とお見合いを」
 

さも当然のように言ってくる使用人に辟易とする
 

「その将来の婿候補、俺名乗り上げてもええですか」
 

「!!  それはご当主と相談しませんと。あとお嬢さんはこのことをご存知で??」
 

「唄子さんは知らん思います」
 

「……なら、なおのことお二人で話し合わねば」 
 

急ぎ部屋を用意しますと言い使用人は去っていった。

 


「お嬢様こちらへ」
 

「北様はこちらへ」
 

使用人に引かれてやって来たのは空き部屋。落ち着いた桔梗の色の浴衣を着た信介さんと、白い部屋着に萌黄色した打ち掛けをまとった私が付き合わされる。
 

「なあ、ちょお、吉野なんなん」
 

来るなりいきなり顔の付け合わせって。まあまああとはお二人で、とまとめにかかろうとする使用人を止める。
 

「二人でなにするん?  あと食事して風呂入って寝るだけやのに」
 

「ですからそれまでの間は二人でごゆっくりなさってくださいな。北様の方からはお話があるようですし」
 

「はい?」
 

一体なんのことだかわからない。そもそもなぜ信介さんが家に泊まっているのかわからないくらいなのに。
 

「それではごゆっくり」
 

私はゆっくりと襖を閉める使用人をただただ眺めるしかできなかった。
 

「唄子」
 

着席を促す信介さんの声につられ腰を下ろす。
 

お茶を出しに来た使用人を挟み、見つめ合う。信介さんは私になにを話したいんだろう。お茶をすする信介さんは無表情だ。
 

「……唄子は、結婚するんか」
 

一服した信介さんの瞳は、ひどく真っ直ぐだ。
 

「……それはいつか。いつかですけど、家のこともありますし…………」
 

それなりに、それなりの人と結婚すると思う。
 

「それなりに、それなりの人と結婚するんか」
 

「ええ」
 

なんなのだ。なんなのだこの人はいきなり。思わず茶碗を持つ手に力が入る。
 

「きっと、大学卒業したあたりで、それなりの人と結婚するんやと思います」
 

だってみんな、そう言ってるから。そう言われて育ってきたから。
 

これはきっと彼氏である信介さんの前で告げることではない。だってこれでは信介さんと別れを前提に付き合っていると言っているものではないか。お前は繋ぎだ、遊びだと。
 

「そうか…………」
しばらく若草色の水面を眺めていた信介さんは真っ直ぐ前を見てこう言った。
「俺は遊びか」


「そういうわけでは、」


 違う。断じて違うのだ。


「信介さんのことは好きです。愛しています。好きやなかったら嫉妬なんて恥ずかしい真似しません。ただ、私が家に抗えないだけで」


「たかが高校生の子供が、なんて言われるかもしれんけど、俺は唄子のことが好きやし、唄子の未来に俺がいればええと思っとる」


 信介さんのまっすぐな思いが、静かにゆっくりと胸をうつ。私も、私もそう思うとります。でもできないの。家がそうさせてくれない。


出かかった言葉が喉の中央でひっかかる。まるで喉に小骨が引っ掛かったかのように。
「唄子。俺と結婚してくれ」


ーー好きや。俺と付き合ってくれ。
 

初めて告白されたあの日と同じように、まっすぐな目で、私を貫いた。
 

「あの、私…………」
 

しばらく俯いていた唄子は、ゆっくりと顔を上げて、絞り出すように呟いた。
 

「わかっとる。お前の家の事情もあるやろうし、すぐに答えを出せとは言わん。ただ俺が本気なのは覚えとってくれ」
 

いつものように瞳を覗きこむようにして言う。唄子の瞳は水の幕でいっぱいに覆われていた。……俺はいつもお前を泣かせてばかりやな。
 

唄子の隣に移動して、そっと額をすり合わせ、肩に手を回す。
 

「本気やからな。俺はお前と一緒になりたい」
 

背中をそっとさすって、唇にそっとキスを落とした。
 

俺は本気やから。お前のためにようわからん着物のことも経営のことも勉強していく気がある。お前と一緒にいるためやったらなんだってする。そのためにはまず、唄子にその気になってもらわんと。
 

祈るように唄子の手を握った。




「なあなあ。唄子と信介くんはどういう仲なん?」
 

夕飯時、ご飯をよそった母が興味を隠せないといったように訊いてくる。瞳に星を宿しまるで乙女のようだ。もうそんな歳でもないだろうに。
「ともだ、」


「お付き合いさせてもろうてます」


「家は?  なにしとんの?」


「共働きのサラリーマンです」


「兄弟は?」

唄子はどう?  将来的に仲良くやっていけそう?  母の矢継ぎ早の質問は止まることがなく信介さんに降り注ぐ。信介さんも律儀に答えなくて良いのに、全てに答えてらっしゃる。あれはちょっと答えに窮してる顔だな。見てるとわかる。ちょっとおもしろい。


「なあ、お母さん止めて。お見合いしに来たちゃうんやで」
 

母の追及にいたたまれなくなって思わず声を上げる。信介さんも律儀に答えんくてええのに。


「違うの?  今まで色のイの字も出て来んかった唄子のところに泊まりにまで来る人が来たんやから彼氏やと思うやない。なあ、お父さん?」


私は今の時代やから恋愛結婚もありな気がするなあ。信介くんやし。と能天気なことをいう母に比べ、父の顔は固い。


「あの、お母さん、そういう話はまだ……」


「そうや。唄子にはまだ早い」


結婚はまだ早い。父の答えはこれだった。




「……っていう話があったんやけど」


 友人との帰路、昨日信介さんと家族の間にあった話をする。


「………………あんたさぁ〜〜〜〜………」


最初はおもしろそうに目を細めていた友人の目が次第に据わってゆくのが雰囲気でわかる。
 

「守られてるのが当たり前だと思ってないでしょうね?」
 

こつ、と歩みが止まる。
 

「北くんはあんたの未来に対して結婚するって形で誠意を見せてくれた。なのにあんたはなんなの?  親が決めることだからわからない?  ふざけてんの?  北くんだって呉服屋のことなんもわからんのにそこまで言ってくれてるんだよ?  いつまで親の簑に隠れてんの?  いい加減北くんに誠意みせなよ」
 

あんた恋愛する覚悟なさすぎ。そう言い捨てた友人の目は青い月のように冷たかった。

 

恋愛する覚悟なんて私にはなかった。信介さんと付き合ったのだって、付き合えば色のない世界が変わると思ったから。最初から好きだったわけじゃない。付き合ううちに信介さんの誠実なところとかバレーに対する静かな情熱とか、そういったところに惹かれていったのは事実だけど。これは全て信介さんが中身がなにもない私にひたむきに向き合ってくれたおかげだ。


信介さんが、ずっと辛抱強く待っていてくれたから、私は信介さんを好きになれた。私はその信介さんに応えられてるーー?


「うち、信介さんと別れたほうがええんかな」
 

小石のような小さな呟きが夕焼けに吸い込まれていった。


信介さんとの別れを考えてからというもの、そればかりが頭を占めるようになった。好きをひたすら相手に伝えているのに応えがもらえないなんて。そんなの信介さん可哀想じゃない?  私みたいなもの言わぬうじうじした子じゃなくて、もっと快活な子と付き合ったほうが、信介さんも快適なんじゃないか。

 

頭に「別れ」の二文字が踊る。よし、明日信介さんに伝えよう。
 

<急で申し訳ないんですけど、明日部活終わりに会えませんか>
 

トークアプリに別れの予兆が浮かんだ。


12月22日土曜日。春高オレンジコートへ向けての練習が滞りなく終わった。携帯を確認するとそこには恋人からの、校門で待ってます、のメッセージ。知らず知らずのうちに歩みが早くなる。唄子に会いたい。会って、一緒に春高へ行ってもらえないか訊きたい。良い返事をもらえるだろうか。


「唄子」
 

そこには月の白さを思い起こさせる着物には柚子があしらわれた和服を着た恋人がいた。ああ。今日は冬至か。
 

「信介さん」
 

お疲れさまでした、と駆け寄ってくる小さな姿は、いとおしい。
 

「おん」
 

頭をそっと撫でる。嬉しそうにはにかむ顔はいつもと違い切なそうだ。
 

「なんかあったん?」
 

「……あの………。あの、信介さん、私たち別れましょ」
 

「なんで?」
 

なんで?  別れを告げる恋人の目からは涙が溢れている。泣くくらいならこんなこと言わなければ良いのに。
 

「だってうち、こんなにも信介さんに大事にしていただいてるのに、気持ちもなにも返せないままで………。与えるだけ与えてなにも受け取れないなんて信介さん可哀想やありませんか……!!」
 

胸に手をあて絞り出すように声を上げる唄子は絶えず涙を流していて、もう少しすれば袖の色が変わりそうだ。
 

「あっ。修羅場や。北さんの」
 

「なに。あ。北さんと呉服屋のお嬢さん」
二人きりの舞台の外から双子の声が聞こえてくる。からかわれるのは面倒だ。場所を変えた方が良い。でも、それでも、

 

「お前はそれで幸せなんか。俺と別れてええんか」
 

玉のような涙をぼろぼろと流す姿はけして円満に別れようとしている姿には見えない。なにが、彼女を突き動かしているのだろうか。
 

「嫌です。別れたくなんてないです。信介さんの真摯なところも、うちみたいなグズを見捨てんといてくれることも好きなんです。……でも、信介さんを家の重荷を背負わせたくないですし、迷惑かけたくないんです。うちと一緒にいるいうことは、お家のことを考えさせてしまうから………」
 

嫌や。別れたくない。とか細い声で唄子が泣く。
 

「別れたくないんやろ?  ならこのままでええやん」
 

「でも家のこととか、私は受け取ったものを返せてませんし……」
 

「俺は家のこと覚悟で付き合うてんねん。唄子は消極的やけど、今みたいにちゃんと自分の意思を伝えられるやん。意思がないわけやない。お前の三歩下がる姿勢は美徳やけど、なにも言わんのとは違うからな」
 

唄子は隣から三歩下がる昭和にいそうな女子だ。きっと家の教育の賜物なのだろうが、時折なにか言いたそうにして諦める場面が見られるときがある。本人から言ってくれるのが一番だが、俺も彼女の言葉を聞けるように導き出さねば。


「お前は、お前のやりたいことをやって良いんやで」
 

玉の涙を掬う。赤くなった瞼と頬が痛々しい。
 

「唄子は、俺とどうなりたいんや?」
 

鳶色の瞳と視線を交わす。また一つ涙が溢れる。
 

「…………一緒に、いたい。別れとうくない。ずっと一緒にいたいです」
 

か細い声が耳朶を叩く。意思をはっきりと示した一言だった。

「………おん。じゃあ、一緒にいような」
 

冷えきった唄子の手を握る。冷たい手に少しでも俺の体温が伝わるように。

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